立善寺のこと

立善寺とは

立善寺は長興院日栄上人(ちょうこういんにちえいしょうにん)により、元和三年(1617年)両国元矢倉に房舎を構え、妙昌寺(みょうしょうじ)と号し、元和八年(1622年)本堂完成とともに下谷金杉村に移りました。

布教活動を拡げていた矢先、明歴二年(1656年)御林用地(おはやしようち)として、寺の土地を召上げらました。

土地の名前が金杉とあったため、芝増上寺に作られる大猷院殿(三代将軍徳川家光公の墓所)に使用するためと表向きなっておりましたが、実際は、不受布施派であったため、幕府による取り潰しだったと考えられます。

永きに渡る幕府との交渉を行い、代替え地を要求しましたが、聞き入れらず、約30年の月日がたちました。

貞享元年(1684年)にそれを不憫に思った茂原妙光寺日俊上人より、現在の谷中三崎村の土地を譲り受け、幕府に承認をもらうため、妙昌寺から寺号を変え、第二世立善院日壽上人(りょうぜんいんにちじゅしょうにん)から取り、立善寺となりました。

この地に移って以来、建物の修繕を重ねながら、山門や仏像などを大切に受け継いできました。現在は、本堂の建て替えと境内の整備を進めています。

国立公文書館所蔵の寺鑑集考には、享保16年(1731年)に調査されたお寺の寺院情報として、現在も残る三宝尊、閻魔様、鬼子母神、三十番神、お稲荷様、日蓮聖人座像も記載されています。
この三宝尊は、元和五年(1619)作と裏書されており、寺を開山当時の寺宝として、祀られています。

年表

元和3年(西暦1617年)長興院日栄聖人 字は文素と云う。玉作檀林(鹿島地方)の能化であったが、両国元矢倉へ房舎を構える。
元和8年(西暦1622年)下谷金杉村に一宇建立。長興山妙昌寺。
寛永2代目立善寺日寿聖人の代に長興山立善寺と寺名変更。
正保3年(西暦1646年) 7月9日初代長興院日栄聖人 寂
明歴2年(西暦1656年) 下谷金杉村の地は大猷院殿(徳川家光 法名)御佛殿
御林御用地に召上げられ、同所御切手町に移転。
貞享元年(西暦1684年) 薬原妙高寺日俊上人所持の谷中三崎村の土地675坪を貰いうけ、寺を引移る伺いを申し立てたところ、貞享元年6月16日に伺いに対する許可の回答があった。
当寺は、江戸時代の創建以来、移転や建物の改修を経ながら、歴史を重ねてきた寺院です。
なお、当寺の由来を調査するにあたって国立国会図書館所蔵の地詩御調書上(文政9年西暦1826年)、国立公文書館所蔵の寺鑑集考(享保16年西暦1731年刊)及び江都寺社帳等により確認したものである。
元禄3年頃(1690年)旧本堂の材木を使用して、本堂再建(現在の本堂)

開山上人について

長興院日栄上人は、玉造檀林(たまつくりだんりん)の2世です。

開基の日遵上人は、身池対論で流罪になった池上本門寺日樹上人(長遠院日樹)と同じ不受布施派で、身池対論の際、京都におり、処罰を免れており、寛永14年(1641年)3月、玉造蓮華寺にて、玉造檀林(たまつくりだんりん)を創設し、安房小湊誕生寺19世(所説あり)となり、日栄上人が2世となります。

正保3年(1646年)7月9日、49歳で死去されています。

日栄上人の弟子である明静院日浣上人は玉造檀林の五世となりますが、流罪され、玉造檀林は廃檀となります。

日蓮宗事典(にちれんしゅうじてん)では、長真院日栄(ちょうしんいんにちえい)で記載されており、和歌山の不受布施派とのつながりがみられる。

寺宝について

三宝尊 元和5年(1619年)

閻魔様 文化9年(1812年)

鬼子母神 永仁2年(1294年) 富木日常上人作

日蓮聖人座像 鍋冠日新上人作                                                                                                           

三十番神像

山門 山門は安永2年(1773年)の建立と伝えられています。本堂や山門の工事については、「お知らせ」で進捗をご案内しています。

しょうぶ寺
能登の妙成寺で修行していた際、妙成寺で菖蒲園を行っていました。その菖蒲を分けてもらい、植えたのが始まりで、しょうぶ寺の看板を作ったところ、しょうぶ寺という通称で呼ばれるようになりました。

住職が手彫りした大黒様

当寺には、住職が正中山法華経寺での修行の折に手彫りした大黒様をお祀りしています。

はじめに制作した小さな像から、その後に彫り上げた像へと、三度姿を変えたことから「みがわり大黒」と名付けられました。現在の像は、米檜の無垢材から彫り上げたものです。

胸元には、修行中に書写したお経を巻物にして掛けています。住職の修行と祈りの歩みを伝える仏像として、大切にお祀りしています。